早稲田大学国際教養学部スウェーデン留学記

SILS生がヨーテボリ大学での留学生活をラフに綴ります!

雑記:スウェーデンに想う ーLGBTQと日本ー

 留学初日に頭を悩ませたことがあった。トイレである。男性用トイレが見つからないのである。私にとっての男性用トイレとは、あの男性のマークを入り口にあしらい、小便器と大便器が共存するあの空間を指す。しかし、眼前には「TOALETT」と書かれた個室が3つほど並ぶだけである。おそるおそる中を覗くと、洋式便器がぽつんと置かれていた。このトイレは男性用なのか、はたまた女性用か。そんなことを考えているうちに一人の女性が声をかけてきた、「Are you in the queue?(並んでますか)」。刹那、私は返事をする暇もなく事実を了解した。この国のトイレは男女を選ばないという事実であった。

 

 思えばスウェーデンは同性愛者やトランスジェンダーなど、いわゆるLGBTQ当事者への保障が充実している。2009年に同性婚が合法化され、2011年には改憲によって性的指向に関する差別が一切禁じられている。もし某議員のように「生産性がない」などのお粗末な発言をすれば、炎上どころの騒ぎでは済まされない。

 「もし私が誰かにゲイだ、とカミングアウトをされても、その人のことを特別視することはしない。ゲイであろうと、その人はその人だからね」とスウェーデン人の友人は語る。スウェーデン人がここまで寛容的なのは、福祉国家に生きているからだと私の教授がボソッと呟いていた。スウェーデンでは、昔からフェミニストの影響力が強く、女性や子どもなどの弱者に焦点を当てる政策を一貫してきた。なるほど、その精神が今のLGBTQへの保障を形作り、国民にも受け継がれているというわけである。むしろ、今や弱者の匂いを感じさせないまでになっている。すなわち、LGBTQはもはや少数派ではなく、一個性として扱われているのである。

 

 日本ではこうはいかない。LGBTQがどうのこうのと話をすると、最近問題になっているよね、で終わってしまう。「ゲイ」の単語一つにも、「異常なもの」としての印象が根強く残っている。腫れ物に触るかのように話題にすることを避け、日本人は「沈黙」を保ちたがる。まず、辿ってきた歴史が違う。開国と共に男色文化が一気に衰退し、家制度によって同性間の関係はよくないものとして厳しく取り締まられた。大衆文化の一端にも、その傾向を見ることができる。例えば、BL漫画のほとんどは、同性愛を一種のロマンスとして冗談めかして描いている。現実との乖離が顕著な描写には、同性愛を非現実的なもの、また特別なものとする価値観が見え隠れする。ゆえに、当事者からの評価も低い。同性愛に対する寛容さが日本社会に浸透しにくい所以は、固有の歴史や文化にあるといえる。

 他方、その沈黙に恐怖を感じる自分がいる。不寛容な社会に生きづらさを感じ、命を絶つ当事者がいる中、未だに無関心であり、時には思慮のない言葉で語る者にぞっとするのである。

 

 それゆえ、私はこの眼前のトイレにこれほどない魅力を感じてしまった。扉には男性用でも女性用でもない、ひとえに「TOALETT」の文字。どのジェンダーでも利用できるのである。同性愛と異性愛を特に区別することをしない。それが当たり前の世界なのである。LGBTQの当事者に寛容な精神が具現化された、まさに理想郷ともいえる空間であろう。あと幾年費やすことになるのであろうか。「トイレ」とだけ記された個室を日本で見たい。スウェーデンに想う。(了)

 

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例の「演技」が私の組織の一部と化してしまった。それはもはや演技ではなかった。自分を正常な人間だと装うことの意識が、私の中にある本来の正常さをも侵蝕して、それが装われた正常さに他ならないと、一々言いきかさねばすまぬようになった。裏からいえば、私はおよそ贋物をしか信じない人間になりつつあった。そうすれば、園子への心の接近を、頭から贋物だと考えたがるこの感情は、実はそれを真実の愛だと考えたいという欲求が、仮面をかぶって現われたものかもしれなかった。これでは私は自分を否定することさえ出来ない人間になりかかっているのかもしれなかった。

三島由紀夫仮面の告白